夢を見ているようだった。桜の舞い散る幻想的な風景の中で、彼はわたしをきつく抱きしめながら愛していると言ってくれた。ずっと前に告白されておきながら、ようやく自分の心の届いたような不思議な感覚だった。どこか宙ぶらりんに放置されてきた問題は、わたし自身が作り出してきたものだ。 怖かった。彼を手に入れて、わたしを差し出して、それですっかりうまくいくなんて思っていなかった。わたしはいつか彼を残してどこかに行くだろう。突然姿をくらましてしまうかもしれない。しかも悪気など一切なく、都合のいいことに記憶からすべてを消し去ってしまえるのだ。 不安定に甘えて笑うわたしに、ユリウスがどれだけ絶望するか考えると手足が凍りつくようだった。 「……………ん」 意識が覚醒しきれずぼんやりと目を開けると見慣れない天井が映った。白いきれいな壁に整頓された客室、必要最低限のものしかない棚と大きなベッドを順に見渡してようやく記憶がつながった。 ここはビバルディが治めるハートの城の城下で、なかなか小奇麗だと評判の宿だった。春の花見に訪れる観光客が増えたために繁盛しているのだとアリスが説明してくれたのを覚えている。けれど滞在するのならどんな豪華な宿泊施設など目ではない場所に泊まることができたので――ハートの城の客分として――すっかり忘れてしまっていた。 今の自分の状態を、どう説明していいのかはわかっている。俗な言い方をすればユリウスと盛り上がった結果、冬まで待てなかったのだ。あのまま桜並木に囲まれて抱き合っているだけで満足できるほど、わたし達は子供でもなければ賢人でもなかった。 素肌に心地いいシーツの中でもぞもぞと動き、隣で眠るユリウスを見つめた。長いまつげが呼吸のたびに震える。藍色の長い髪はわたしのものなんかよりずっと手入れが行き届いていた。じっと見つめていると昨夜のことを思い出しそうになり、慌てて枕に顔をうずめる。勢いというのは本当に怖い。 「……………何を、しているんだ?」 寝起きのユリウスの声は掠れていて切なげに聞こえた。 わたしは真っ赤になった顔のまま、ちらりと枕から視線を投げかける。 「…………おはよう、ユリウス」 「あぁ。………その」 「…………う、うん?」 「その、だな。………………からだは」 ユリウスの顔がみるみる内に赤くなり、視線は定まらずに泳いでいく。普段はユリウスが照れていればわたしはずっと冷静になれるはずなのだが、今日は勝手が違った。わたしも枕に顔をうずめたまま、か細く返答するだけで精一杯だ。 「だいじょぶ」 「そうか。…………無理はするんじゃないぞ」 「わからないから約束はできないけれど、ユリウスはわたしに無理強いしないでしょ?」 ちらりと伺い見れば、失言だと悟ったのか彼が慌てだした。 「そうじゃなくっ、いや、それはそうなのだが………お、女の体のことを私はよく知らない。お前が無理をしているかどうかははかり様がないんだ。無理強いするつもりはもちろんないが」 昨夜の余韻が残るベッドで交わされる会話にしてはいささか今更な部分も多いがわたしは妙に納得してしまう。これがわたしとユリウスの関係なのだ。消極的で受け身な余所者と、他人に無関心な時計屋なら、早いくらいの展開に違いない。 わたしはユリウスの片腕をとって、自分の腕をからめるようにして抱きしめた。 「何をしてるんだ?」 「ユリウスの体温が気持ちいいの」 手の甲に頬を寄せるとほんの少し機械油の匂いが混じった。ユリウスの手がわたしは大好きだった。髪も目も鼻の形も、運動しないくせに厚い胸板も好きだったけれど一番は手のひらであり指だった。 命を生み出して紡ぎ、すべてを終えたものたちを迎える指先が同じだなんて奇跡以外の何物でもない。 誰が否定しようとユリウスの仕事は疎まれるべきではないと思う。けれどそれはわたしが余所者だからたどり着ける答えなのかもしれず、ずっと歯がゆく思っていた。彼の奇跡をどうして誰も称賛しないのだろう、と。 「あまり触れるな………。きれいではないんだ」 当の本人さえもそう断じるのだから重症だ。わたしはうっとりと瞑っていた瞳をぱちりと開けて、ユリウスを軽く睨んだ。 「そういう言い方嫌い。わたしはユリウスのどこも、不浄だと思ったことはないもの」 「だがな………」 「いくらこの世界に馴染もうとそれは変わらないと思う。言っておくけれど、そんな馬鹿な理由で触れてもらえなくなったりしたらわたし家出してやるからね」 この指に触れてもらえなくなるなんて考えたくもない。唇を引き結び軽く睨みつけると、ユリウスは目を丸くした後で呆れるように笑った。ゆっくりと絡めとられていた腕を引き抜き、わたしの頭を子供にするように撫でる。 「それは勘弁してくれ…………。私の方こそ、お前に触れたくて狂う」 正確に時を刻むことだけを信条にしてきた時計屋の指先を狂わせるな。 何度も愛おしげに髪を掬う指先の熱がわたしの体を隅々まではっきりとさせていくようだった。ハートの国に堕ちて、クローバーの国で迷いながらも決断し、ジョーカーの季節でなによりも大切な命を愛する人からもらったのだと、長い旅路に思いを馳せた。 この世界の誰ひとりとして欠けていれば、この結末は得られなかったに違いない。 そう、確信できる。 「ねぇ、ユリウス」 「ん、なんだ」 「もう少しゆっくりしたいけれど、お仕事が溜まってそうね?」 「………まぁ、そうだな。数時間体はろくに仕事をしていなかった」 「わたしがプールに行った時からでしょう?」 「気づいていたのか……………だが、まだまだだな。お前が出かける準備をしていたときからだ。気になって集中できなかった」 「……………」 「……………な、なんだ。その眼は」 「呆れてるの。だったら聞けばいいのに」 「聞けるか。…………お前が楽しそうだったからな」 「だから、遠慮したの? あとから追ってくるのならあなたの手間になるのに」 「…………………」 「はいはい、黙らないで。あれはわたしも悪かったわ。プールなんて言ったら、あなたは行かないと言うに決まってると思ったの」 「だから、直前に言ったのか」 「そう。ゴーランドやアリスと会っておきたかったから」 「お前は誰とでも仲がいいからな」 嘆息するユリウスの胸に、わたしはおもむろに張り付いた。耳を胸にあてると規則的な音が聞こえる。 「お、おい」 「………………いい音。いつか、わたしの音も同じになるのかな」 この世界で長く暮らすうちにわたしはきっと「わたし」を失くすことだろう。事実、わたしの体は変調を来たしているはずなのだ。アリスと自分を比べた先にあるものを予期していないわけではない。 ユリウスの肌の熱と、機械的な音はすべてがちぐはぐだ。 「……………この世界の一部となるのが怖いのか?」 「怖くはない。ただ、そのときがいつ来るのかわからないのが怖い。それと」 胸から顔をあげて、わたしはユリウスの顔を両手で挟み込む。 まっすぐに見つめる先で藍色の瞳がわたしを包んでくれる。 「この世界にとって特別ではないわたしを、あなたはそれでも特別だと思ってくれる?」 百万回の愛の告白よりも、この答えは価値のあるものだ。 彼の真摯な瞳が迷うことなく近づいて唇を塞ぎ、赤い頬のままでくれる答えこそが。 「当たり前だ」 ぶっきらぼうな彼そのものなのだから。 こみ上げてくる笑いをそのままに、わたしは笑い続けた。彼の腕は心地よく、仕事になどやりたくはなかった。優しい恋人を仕事にやりたくないなんて、可愛い我儘のはずだ。 いっそこのまま、あと数時間体くらいサボらせてもいいんじゃないかしら。 ふとそんな考えが頭をよぎったときだ。感じたこともない強い悪寒が背筋を勢いよくのぼった。 全神経が警報を鳴らしている。この強烈な、嫌な予感は外れたためしがない。 「ユリウスっ」 その意味を理解したわたしは面食らうユリウスに懇願する。 「今すぐ何も聞かずに服を着させて!」 ぱちん!理解力に優れているユリウスの指が鳴り、たちまち服を着たわたしはベッドから抜け出して扉に向かって仁王立ちで警告する。 「その扉を無断で開けたら承知しないからね!」 その時のわたしの剣幕を、後のユリウスは『鬼のようだった』と言ったけれど、恋人との甘い目覚めのひと時に闖入者なんて許せるはずがない。 ユリウスも誰がいるのか察したのか、遅ればせながらわたしの隣に立って肩を落とした。 「が怒るのも無理はないぞ。……………エース」 観念したのか扉の外側からノックの音と無駄に明るい声が響いた。 『すごいなぁ、。俺が扉を破ろうとしているのがわかったんだ』 「破ろうとしたからわかったのよ。まったく……」 『ははっ、怒らないでくれよ』 エースの空笑いは慣れたものだが、これ以上彼の親友を独り占めすることは難しいらしい。 わたしはユリウスと視線を合わせて、二人で肩をすくめた。 『わかった、俺は行けばいいんだろ? でも二人だけでってのは』 「誰が行けって言ったの?」 「そうだ。誰が帰れと言った」 扉をあけ放ってみれば、エースは向かい側の壁に体を預けて腕を組んでいた。その表情はまるで拗ねている子供のようだ。わたしたちの姿を確かめた途端に目をぱちくりとさせて口を半開きにしたが、エースにしては随分珍しい表情だった。 「何を呆けてるのよ、エース。帰るよ」 「そうだな、貴様には頼みたい仕事が溜まってるんだ。クローバーの塔で待っている時間が短縮される」 「え? あ…………二人とも」 エースの脇を通り過ぎ、宿屋の廊下を足早に進むわたし達は振り返る。 わたしたちに荷物などはなく手ぶらだったので、エースに手を差し出すのは容易だった。 「何してるのよ、エース」 「置いていくぞ、エース」 早く来いと手招きしたときのエースの顔をわたしは忘れないと思う。あんなにも嬉しそうな顔は見たことがなかったから。 蜜月の邪魔をされたというのに、まったく心の広いカップルだ。いや、広くならざるを得なかったといった方が正しいか。 「あぁっ、そうだ! これから旅に出ようか!」 「「却下」」 がばりと両腕で抱き着いてきた大型犬を冷たくあしらいながら、わたし達は春の幸福の中を歩く。あまりにも現実離れした美しい土地で暑苦しい邪魔な友人を背負いながら、愛おしい人と一緒に歩いていく。 そんな変な日々があってもいい。いつしか戦わなければいけなくなったとき戦えばいいのだし、迷ったのなら彼の目を見よう。騎士と一緒に迷子になるのはごめんだけれど、それでもエースはエースなりにわたしの傍に居てくれる。 これが都合のいい夢ならどうか覚めないでほしい。わたしのワンダーランドはまだ終わらないのだから。 |
世紀の恋の残滓
(2014.03.25)