木漏れ日がゆっくりと西に沈んでゆく。赤い綺麗な夕焼けがぼんやりぼんやり、頼りなげに浮いているさまはおかしい。吹き消してしまえるような、熱くてとても触れないような、あの赤はとても不思議な色をしている。
「
さん…………?」 「あ、冬樹くん」
彼の出現が、わたしを現実世界に覚醒させた。冬樹君はわたしがベットにいたことにはさほど驚いてはいないようだったけれど、わたしがぼんやりと空を見上げていることは意外みたいだった。彼の手に握られたカップから、白い湯気があがっている。 わたしはキチンと片付いた冬樹君の部屋の中で、クッションを抱きながら座っていた。足元には彼が大好きな水晶の髑髏だとか、わけのわからない暗号文などが所狭しと並んでいる。それがゆっくりと赤く染まっていく部屋の中で奇妙に歪んでいた。ゆらゆら、ゆらゆら。またまどろみが襲ってきそうだ。
「コーヒーで、いいんだよね?」 「うん。ありがと……………」
微笑んで、彼はわたしにカップを渡す。ひどくゆっくりとした動作で渡されるそれに、わたしは安堵する。伝わる温かさに指先の感覚が戻る。麻痺していたわけではないけれど、でも頭のどこかが麻痺していた。冬樹くんは自分の分のカップに口をつけている。赤い部屋の中で黒い液体が揺れて、わたしの瞳はそれでうまっていく。苦い味に慣れた舌が、平和な日常だと教えてくれた。
「
さん」 「ん………?」 「どうしたの。何か、悩み事でもあった?」
冬樹君の声に、わたしは嬉しくなる。彼はとても優しかった。わたしがいきなり部屋に訪れたときは何も言わずに迎え入れてくれたし、ここに居ていいか尋ねたら「どうぞ」と微笑んでくれた。そうして落ち着かないように座り込むわたしにこうやってコーヒーを淹れてくれる彼はとても優しい。溶けかけの砂糖みたいな優しさだ。
「ううん……………」 「そっか。……………でも、軍曹が探してたよ?」
一応、知らないって言っておいたけど。 そ知らぬ顔の冬樹君が、湯気で煙る。わたしはそんな冬樹君を見ながら、少しだけ驚いていた。あの冬樹君が嘘をつくなんて。
「ごめんね」 「………………どうして?」 「だって冬樹君に嘘を吐かせたから」
すごく悪いことをしたような気分になる。彼が思っているようにケロロには会いたくなかったけれど、でも誰かを巻き込むつもりなんてなかった。
「いいんだよ。………………それに、
さんを怒らせるような軍曹が悪いんだしね」 「え………」 「怒ってるんでしょ。なんとなくだけど…………」
けれど冬樹君の表情は、言葉と違ってはっきりと真実を要求している。温かいマグカップに香る、コーヒーの匂い。あまり似合わない苦い味が、彼の優しさでだんだんと甘くなって、もうわたしの心は溶け出していた。ふぅと、漏れるため息が夕焼けに色づく。
「喧嘩ってわけじゃないんだけどね。ただちょっと理不尽だなぁって思って」 「理不尽?」 「うん。だってケロロは宇宙人でしょう。それでわたしは地球人。この差は埋まらないし埋めようとも思わないけれど、なんだかそれってとても大きな力の差があるような気がして」
埋まらない、差。それでもいいと願った日々だってあったけど、でも最近気がついた。わたしの方が、圧倒的不利なのだという真実。彼らはわたしたちの星に訪れた。けれどわたしは彼の星に行くことは出来ない。見ることも叶わない。もし、彼が戻ってしまっても止められない。 圧倒的なこの力の差。無力な自分自身。 気付いてしまえば、笑う彼がひどく腹立たしかった。
「逆ギレよね。でも、なんだか落ちつかなくて」 「軍曹は、少なくともそう考えちゃいないと思うよ」 「うん、わかってる。ケロロはそんなふうに考えてないって。でもね、わたしは考えちゃうの。押しつぶされそうな程どうしようのないものが怖くて、彼を見ていられない」
明日黙って出て行かれても、わたしは変わらずに一日を過ごすのだろう。そう考えたら怖かった。わたしは都合のいいヒロインみたいに、あなたを思い出すことなんて出来ないよ。だって、わたしは特別なものなんて持っていないから。
「
さん…………顔を、あげて?」 「ふ、ゆきくん」 「大丈夫だよ。軍曹はそんなこと絶対にしない。それに力だって、
さんが言うようには見えないけどな……」
見つめる先、冬樹君がおかしそうに笑う。「ほら」と小さな声で呟かれ、耳を澄ませれば知っている人の声。
『
殿―!どーこでありますかー?』 「ほらね。さっきからずっと探してるよ?」 『我輩が何かしたなら謝るから〜。ね〜、機嫌直して出てきてよ〜』 「………………」 『ガンプラだって一日一個にするでありますよ〜。トイレ掃除もサボらないし!』
明らかに論点がズレているケロロの叫びは家中にこだましている。しばらくすると、夏美ちゃんがケロロを怒鳴る声が聞こえていた。叫びついでにいらないことまで告白してしまったようだ。鬼ごっこが始まった下の階はにぎやかだった。 それを聞いているわたしは自然と顔が綻んでいく。ついで、冬樹君の顔も笑顔になる。
「軍曹、泣いちゃいそうだね」 「う〜ん。もう夏美ちゃんに泣かされてると思うんだけど」 「そうかも。………………じゃあ、
さんが行かなきゃ」
当然のことのように冬樹君が進めるから、なぜかわたしも頷いて当然のことのように立ち上がってしまった。そうしてからふと、なんで立ち上がっているのかと考える。恐ろしいのは条件反射だ。
「いってらっしゃい。
さん、言いたいことは言わなきゃ伝わらないよ」 「冬樹君……。うん。そだね。言いたいことはぶちまけなきゃ!」
頷いて、わたしは入ってきたドアに手をかける。そうして出て行くときに彼の目を見てありだとうとはっきり言った。部屋を出た途端に、下の喧騒が一層五月蝿くなる。なんだかギロロの声までする。耳をすませればタママも、ドロロも、クルルの笑い声までも聞こえてくる。あぁ。これは大変だ。大事になってたらどうしよう。 階段を下りながら、わたしは笑っている自分に気がついた。
悩みなんて本当にくだらない。わたしとあなたの距離なんて、ほんの数歩なのだから。
「実際………………」
一人取り残された部屋の中で、冬樹は呟いた。下の喧騒が徐々に低くなる。大岡越前ならぬ、
の裁きが下ったのだろう。この家の力関係で言えば、もっと言えば軍曹の力関係で言えば、もう彼女の右に出るものはいないのだ。
「軍曹は、ますます地球を侵略できなくなっちゃったんだよね」
可哀想だな、なんて心にも思っていないけど。
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