忍者とはその昔に領主や殿様に仕えていたといわれる隠密行動を主体とする兵だった。全身黒の衣装中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っていて、背中に刀、夜陰に紛れて敵地に侵入するなどというイメージで描かれることが多い。近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。また女性の忍者を「くのいち」と呼んだりするが、それは「女」の文字を解体することによって作られた隠語らしい。

 

 



「何読んでるんですか? さん」
名前を呼ばれてわたしは本から顔を上げた。わたしは何でもないわ、と言って本をしまう。彼女はセーラー服を揺らして小首をかしげた。長いポニーテールがさらりと流れる。
「それより、どうしたの?」
「あぁ。そうでした。今夜、お暇ですか?」
「今夜?暇だけれど」
「じゃ、アソコに行きましょう!」
 彼女が目をキラキラさせてそう言った。あまりの声の大きさに、教室に残っていた数人がこちらを振り向く。わたしは彼女を宥めて、了承する答えを伝えた。
「じゃ、約束ですよ!私、準備して待ってますから!」
 満面の笑顔。彼女は一瞬のうちに近くの窓から外に飛び出した。あっけに取られるクラスメイトのことなど忘れて校庭を走り行く彼女は、まるで風だ。
「なぁ、
 今まで傍観を決め込んでいた一人のクラスメイトがわたしに近寄ってきた。彼が言うことにある程度の予想はついていたが、わたしは無表情に「なに?」と返事をする。
「お前、よく東屋と会話できるよな〜」
「そう?いい子だけど」
「や、悪いやつじゃないのはわかるんだけど、さ。なんてゆーか、わかんねぇ?」
 もちろん彼の気持ちがわからないこともない。しかしわたしには彼女のことを理解しようともしないで不安要素だけで近寄ろうともしないクラスメイトを庇う理由などどこにもなかった。だから特に気持ちも込めずに「わかんない」と返事をする。言ってみて、わたしの声が驚くほど冷たいことに気付いた。
「つめてぇなぁ、 。でも、やっぱ東屋はどっかおかしいんだよ」
 気分を害したように、彼がぶつぶつと文句を垂れた。あぁ、鬱陶しい。言いたいことがあるなら言えばいいものを。彼は結局、彼女に魅かれているのだ。しかしその魅力の裏に隠された得体の知れないものに怯えている。触れる勇気もない不満を、今度は批判することでまぎらわそうとしているだけなのだ。わたしは帰り支度を早々に済ませて、立ち上がった。無言で帰ろうとするわたしの背中を、情けない彼の声が呼び止めた。仕方がないので振り向いて、鞄の中から一冊の本を取り出す。
「あなた、忍者って知ってる?」
「は?忍者?」
「そう。その様子じゃよくは知らないわね。一度読んでみるといいわ」
 状況を読み込めていない彼にわたしが先ほどまで読んでいた本を握らせて、わたしはもう一度踵を返した。彼に構っている余裕などない。
 彼女―――――――――小雪ちゃんが、わたしを待っている。





 

 





さん、こっちです!」
「小雪ちゃん」
 午後八時を過ぎたころ、わたしたちは町外れの小高い丘に来ていた。この丘は普段は散歩道にしている人もいるのだが、もう夜も更けているので人影もない。いつもなら懐中電灯か彼女お手製の蛍火で足元を照らすのだが、今日は雲ひとつない月夜だから必要がなかった。わたしたちは危なげもない足取りで目的地まで肩を並べて歩き出す。
 しばらく歩くとわたしたちの前には一本の大きな杉の木が現れた。とても幹が太く、空に突き刺さる勢いで聳えている姿は立派だった。わたしたちは顔を見合わせると、にっこりと笑う。小雪ちゃんが伸ばしてくれる腕に捕まれば、一歩の跳躍のうちにわたしの体は地面から離れて重力を失ったように舞い上がった。
「ありがとう。ここからは、自分で上れるわ」
 跳躍後、わたしは見上げていた杉の枝に止まっていた。杉の木はのぼれる場所までが辛いので、初めだけ彼女に抱えて飛んでもらっているのだ。クラスメイトであり同い年の少女である小雪ちゃんに頼むのはとても心苦しいのだが、苦もなく軽々と飛ばれてしまっては断る理由にもならない。けれどやっぱり気が引けるので、目指す場所までは自分の力で上るようにはしている。
「大丈夫ですか? さんが落ちても私が助けますから安心してくださいね!」
「うん。でも出来れば落ちる前に助けてね」
 上りづらい場所は手を借りながら、なんとかわたしたちは目的の場所に着く。杉の頂上付近、小雪ちゃんとわたしが並んで座っても折れることのない枝がわたしたちの秘密の場所だった。彼女と友達になり、初めて二人で見つけた場所がここなのだ。
さん、ちょーっと目を瞑っていてください」
「え?」
「いいからいいからっ」
 座るとすぐに小雪ちゃんにそう言われ、わたしは目を瞑った。それから五分しても彼女はまだ目を開けてはいけないと言い、十分たっても忍耐ですよ〜と笑うばかり。ようやく目を開けていいと言われたときには、もう二十分は時間が過ぎていただろう。
「う、わぁ」
 すぐに視界に飛び込んできたものに驚いて、わたしは瞳を細めた。眩しすぎる月がわたしと小雪ちゃんを真正面から照らしていた。随分明るいな、と思っていたのだがこれほどまでだったとは。しかもその月はどこも欠けたところなどないようなまん丸だったから、きっと満月なのだろう。けれどわたしはその美しさに見惚れていて、頭が働いていなかった。
「ね?待ってよかったでしょ。今日はいい月夜になると思ったんだ」
 わたしの表情に満足したように、小雪ちゃんも微笑んだ。わたしは月を見たまま、うんと頷いた。わたしたちはしばらく、雲のない夜空の星々をかき消す勢いで燦然と輝く月を見ていた。言葉もなく、ただ眺めているだけの時間。クラスメイトの彼に言わせれば、これが可笑しいのかもしれない。けれど、わたしと小雪ちゃんにとっては普通なのだ。
「あ、そうだ!私、お団子作ってきたんですよ〜」
 小雪ちゃんが背負った包の中から笹に包まれた白いお団子たちを広げた。なんとも美味しそうな笹の香りと甘い香りが鼻を掠める。わたしはそれにお礼を言って、自分も背負ってきたリュックを下ろして中からお茶を取り出した。
「お茶。寒いかもしれないって思って。でも、ちょうどよかったね」
「うわぁ、はい! さん、素敵です!」
「あ。熱いから気をつけてね」
 渡しながら注意すると、彼女は「わかりました!」と大真面目な顔で容器を受け取る。その真面目な顔が面白くて笑ってしまいそうだ。
「あれ。そういえば今日、ドロロ君は?」
「ドロロは多分お友達のところです。 さんと会うんだって言ったら、楽しんでくるでござるよって」
「そか。でも残念かもね。ここより見晴らしのいい場所なんてないもの」
「えへへ。でも私は嬉しいですよ〜。 さんとこんな綺麗な月を見られて!」
 はしゃいだ声を出す、小雪ちゃんはどこからどう見ても普通の女の子だ。けれど彼女の格好といえば普通という観念から180度角度を変える、忍び装束と呼ばれる服装だった。
 どこも違わないのに、例えば歩く姿も笑う声もどんなことで喜ぶかということも普通の少女と何一つ変わらないのに、彼女の忍者と言うスキルが全ての歯車をかみ合わなくさせてしまっていた。だから一般人の目には、どこかしら「おかしい」と映るのだ。
「本当に、綺麗ね」
「はい!ね、 さん」
 こんなにも、彼女は自然体であると言うのに。わたしを呼ぶ声も、握りしめてくる手の温かさも何も変わらないのに、人は異質なものほど敏感に察知する。
「なに?小雪ちゃん」
「明日も明後日もずーっと、こうやって一緒にいられるよね」
 先ほどまでの嬉しさばかりの声に、陰りが見えた気がした。ほら、悩みだってみんなと変わらないじゃない。わたしはあのクラスメイトを否定するように、握られた手を両手で握り返した。小雪ちゃんの白くて小さな手が、わたしの両手にすっぽりと納まる。目を丸くする彼女に、わたしは精一杯微笑んだ。
「当たり前じゃない」
さん」
「明日も明後日も、ずーっと一緒。お婆ちゃんになっても、こうやって二人でお月見をするんだよ」
 まるでそれが叶いますように、と願うようにわたしは祈った。
 小雪ちゃんが、 さんは可愛いお婆ちゃんになりそうですね、と笑ってる。
 小雪ちゃんだって、可愛いお婆ちゃんになれるよ。
 わたしたちが小雪ちゃんに感じるこの時差のような壁は乗り越えられる日が必ず来るんだ。だってそうじゃなきゃ、わたしたちが友達になれた理由にならないじゃない。世界中の人に認めてもらう必要なんてないけど、小雪ちゃん一人が普通に暮らすくらいのスペースもない社会ならそんなものはこっちから願い下げだ。この可愛らしい忍者の少女が暮らせない場所なんて、消えてなくなってしまえばいい。
さん?」
 小雪ちゃんがわたしを呼ぶ。握った手にいつのまにか熱がこもっていた。
 見上げれば、月と一緒に輝くわたしの大切な友人。
 感情が麻痺してしまった現代人は小雪ちゃんの持つ純粋な好奇心に怯えているのかもしれない。だから、怖くても魅かれて、触れたいのに二の足を踏むんだ。けれどわたしはそんな馬鹿なこと絶対にしないから。
「小雪ちゃん、わたしたちずーっと友達だからね」


 こんなわたしの言葉に心底嬉しそうに笑ってくれる彼女を、守り抜くと心に誓う。

 

 

 

 

 

 


小説風にチャレンジしてみました。三科さまに捧げます!!

(06.11.16)