わたしはとても弱く臆病で、だから少しの問題でも重大にとらえてしまう傾向にあった。
とても小さな問題であっても、それはわたしの中で悪になる。もっていてはならない病原体のようにわたしを蝕んで、思考をぐにゃりと曲げてしまう。そうすると、わたしの口からは考えても居ないひどい言葉ばかりが思いついたように口をついて出てしまい、それはわたしにとっては真実であってしかるべきなのだけれど、言うべきではなかったものだとひどく後悔させられるものばかりが、あれよあれよと言う間に現実に出てきてしまうのだ。わたしの口のなかにある、どこにあったかもわからない心に閉じ込めていたかったものたち。
だからこれもそういうものの中のひとつで、さしたる違いはなかった。


「わたし、彼氏ができるかもしれない」


ラボの中、薄暗い部屋でいつものようにパソコンに対面する彼の頼りない小さな背中に向けてわたしは話す。どんな些細な変化でも見逃さないように。
クルルは普段どおりわたしには一瞥もくれずに、パソコンばかりに向き合っている。


「ふぅん」
「告白をね、されたの」


促されはしないというのに、わたしは報告する。馬鹿みたいに健気だと思う。
けれどどれも真実なのだ。わたしは地球の、一般的過ぎる男の子に告白をされて、その彼の告白を断りきれずにもやもやとしている。その告白は歓迎すべきものじゃなかった。現実に引き戻すことなど、誰も望んでいやしなかったのに。
現実の扉を開けてしまえば、そこに広がる世界にクルルはいない。


「付き合うってどういうことかわからないけれど、わたしが頷けばそれが始まるっていうのはわかる」


クルルの背中と会話するわたしは、けれどその答えに何の希望的観測も見出せていなかった。彼がどんな反応を示せば、わたしは答えを見出せるというのだろう。普通の幸せを望んだのなら、わたしはこの告白を受けるべきなのだ。ただしそれはクルルと出会う前のわたしに戻るという意味ではない。クルルと出会い、受け入れてしまったわたしがこの告白を受けるとしたら、それは偶然見つけてしまった価値のある幸せを投げ出すということだ。この世界の輝かしい何かに触れてしまって尚、かすんでしまった普通の幸せを選ぶのと、一緒。
ずっと満たされはしないものと同じ空間に居て、それに慣れなければいけないなんてひどく不幸だ。


「クルル」


背中は、一言も返事をしてくれない。
あのなで肩の描く曲線が、わたしの心のよりどころであった。カタカタとキーボードを叩く音が、わたしの安堵だった。時折不機嫌そうに、けれどどこか幸福そうに舌打ちをするのが、わたしの生きている確認――目と耳とが正常であるという――だった。
彼のために生きているわけでは決してないけれど、彼がわたしの生きている理由になりつつあったことに変わりはない。今更、『普通』を与えられたところでわたしはその『普通』をどうやって受け取ればいいんだろう。
けれど、とも思う。クルルがわたしの前からいなくなるとしたら、痛い目をみる。その考えはわたしを凍りつかせ、幸福だった脳を現実に引き戻した。いつかの未来、わたしが幸福を失ったあとのお話。その未来に今から慣れておかなければいけないんじゃないかと、ちらりと思った。


「ねぇ、クルル」


語らない背中に腕を伸ばした。自分の腕が奇妙な生物のように見える。


「触るんじゃねぇよ」


奇妙な生物は痛みを伴って叩き落された。動かなかった背中の主がこちらを振り向き、苦々しげにわたしを睨みつけている。腕よりも視線よりも先に、脳の裏側がずきりと痛む。


「それでてめぇはどんな返事を望んでるんだ? 俺にソイツの身辺調査でもしろってか。安全確実、普通の善良な一般市民で騙される心配なんてねぇ、ちゃんと幸せになれると保証しろとでも?」
「………」
「ふざけるんじゃねぇよ。てめぇの幸せなんて知ったこっちゃねぇ」


クルルの心がガラスで出来ているのなら、引っかき傷がたくさん出来上がったんだろうと思われる悲鳴みたいな声で彼は言う。わたしは何も言えず、かと言って曖昧に笑うことも出来ず、自分の愚かさをただただ呪った。
わたしの幸せ。あぁ、幸せに保証がないことなんてもう知っていたというのに。


「クルル、ごめ」
「……触んじゃねぇよ。これからその男を掴む手で、呼ぶ声で、俺を」


まるで汚らわしいものを見るように瞳を細められ、背筋が凍りつく。そんな目をされたことなどなかった。ここに居ることを嫌悪する、生まれた事実を否定されるような、完全な拒否。


「え、らばないよ」
「は、どうだか。じゃあ何故オレに尋ねた。少しは揺らいでたってことだろ。てめぇの考えている通り、その男に頷けば晴れて恋人同士だ。随分簡単なお話じゃねぇか。これのどこが疑問だ不思議だ悩む必要がある。どれもこれもお前の問題であって、オレ様には何の関係もないよなぁ」
「……そうだ、けど」
「それとも何か。止めてほしいのか? やめておけよってこのオレ様が、お前に言ってやらなきゃならねぇ義務がいったいどこに」


あるんだ、とクルルは言い募る。わたしは会話をしながらもどこかフィルターを通して会話をしているような気分になる。感情をむき出しにして、クルルが話してくれている事実が受け入れられない。
けれど受け入れなければこの会話に終わりは見えなかったので、わたしはさっぱりとした気持ちで素直になることにした。


「うん。止めて欲しい」


息を止めたのか吸ったのか、ともかく風の音が二人の間でする。


「止めて欲しかったの。試すような真似をしてごめん」
「………くだらねぇ」
「少なくとも、わたしにはくだらなくなかったの」


言ってみてはじめて、どれだけクルルが好きだったのかがわかった。もうあとの祭りだけれど、わたしは目の前の宇宙人が好きで仕方がなくて腕を伸ばしたくて卑怯な真似をしたのだ。これなら面と向かって告白したほうがよほど潔かった。
わたしは瞳を閉じる。失うことを噛み締めるように、空気を吸う。クルルが乱暴に息を吐いた。


「くだらねぇよ。てめぇに選択肢があると思うのか」


くっ、といつもよりずっと低い笑い声。まぶたを持ち上げた先に見えたのは余裕をまとった彼だ。


「オレ様を試す暇があったらさっさと馬鹿男をフって来い。話はそれからだぜぇ」


それきりまた背中を向けてしまったクルルは何を言っても振り返ってくれなかった。本当に「話はそれから」らしい。わたしはわけがわからず、けれどクルルに背中を向けられるくらいなら誰の話だってお断りできたのでその通りにすることにした。
はじまるはずだった可能性をすべて犠牲にしてでも欲しいものを、わたしは明確に捉えたのだ。
もう一度クルルのもとに訪れたなら彼は満足そうに笑ってくれるのだろうか。

























零れ落ちる水滴は






その心に嘘を吐けずにいる






(10.06.26)







薙さまに捧げます!