わたしが必死に刀を握ったとき、すでに世界の形は歪みきっていたのかもしれない。わたし達のあずかり知らぬところで秩序は色を変えていたのだろうし、正義の旗本は移動していたのだ。そう考えるとやっと納得がいく。なぜならば、わたし達はずっと正義の名の元に戦っていたのだし、今更悪者扱いされる謂れがない。だとすれば世界が変わったのだ。わたし達ではなく、歪んだのはもっと大きな何かだった。 「…………なに、考えてるの」 苦しげな声は、けれどいくらか整ってきた息と共に吐き出された。わたしは思考を打ち切り、隣に座る沖田さんを見た。洋装に身を包んだ、夜の森に溶け込む姿はいつ見ても儚げだ。変若水を飲んだところで治らなかった病と、その変若水のせいで襲う副作用に耐える沖田さんは昼でも夜でも苦しそうだった。 「明日はどれくらい進めるだろう、と考えてました」 「なにそれ。いいんだよ、無理しなくて」 「今無理せずにいつ無理するんですか」 反論すれば、くつくつと低い笑い声。その低さにぞっとして反射的に髪を見てしまった。よかった。白くなっていない。羅刹と化した沖田さんを止められるとは思っていない。 わたし達は先に進んでいるはずの新撰組を追っている。会津に向かったという情報を頼りに進んでいるのだが、いかんせん時間と疲労が邪魔をして上手く進めはしなかった。加えて薩長の攻撃の手も緩められはしないのだから、彼だって苛立っているはずなのだ。 早く早く、追いついて沖田さんを新撰組に戻してあげたい。この人はこんなところに居ていい人じゃない。 もとよりわたしを突き動かすのはそれだけだった。沖田さんがいるべき場所は近藤さんがいて土方さんのいる、あの新撰組なのだ。そしてなにより雪村千鶴という女の子のいる場所が彼の安寧に他ならない。 それなのに、といつも思う。それなのにどうしてわたしがここにいるんだろう。千鶴ちゃんではなく、わたしが沖田さんの看護を頼まれたとき空気が止まった気がした。断らなければと思ったはずだ。ここで断らなければ、沖田さんを一人にしてしまう。 「…………ねぇ」 突然、頬に冷たいものが触れた。わたしは驚いて意識を取り戻す。沖田さんがまっすぐにこちらを見て腕を伸ばしていた。夜の森の中で、髪はいくらも白くないはずなのに瞳だけがやけに赤く綺麗だ。 どうしたんです、と笑おうとして顔が引きつった。 「君はさ、貧乏くじを引かされたと思っていいんだよ。僕なんかに付き合わされて、きっと楽には死ねない」 「楽に死にたいとは思ってません。…………どうして、そんなことを言うんですか」 「だって、暗い顔ばっかりでしょ。僕に付いてきてから悩んでばっかりで前みたいに笑ってくれない」 「暗いんじゃなくて、慎重になってるだけです」 「じゃあ、慎重にならなくていいよ。僕がその分周りに気を配るから、君は能天気に笑ってればいい」 瞳を細めて笑う沖田さんは冗談を言っているふうではない。けれどわたしは目を見開いて、言葉をつなぐことができなかった。どうしてですかと問いただしたかった。穏やかに笑う沖田さんはひどく冷たい手でわたしの頬をなでる。ざらりと固い、剣だこだらけの手だ。 気付けば頬には涙が流れていた。あんまりにも沖田さんが穏やかに笑うので、怖くて仕方なかった。 「困った子だなぁ。笑えって言うのに泣くなんて」 涙を流し続けるわたしの頬を沖田さんの指が何度も往復する。 わたしは心の中で何度も謝っていた。千鶴ちゃんがここにいれば、どうにかなったかもしれない。この人の心をありのまま浮上させてあげられたのかもしれない。ふたりで手を取って地を駆け抜けて、魔法のような速さで新撰組に追いつけたかもしれない。 近藤さんがいて土方さんのいる、この人の故郷は追えば追うほど遠くなってしまう。 「ごめんなさい」 しゃくり上げながら謝ると、沖田さんの指がぴたりと動きを止めた。 ついで、上半身を傾ける気配。滲む瞳にわたしを覗き込む沖田さんが映った。ひどく真剣な瞳で、息を潜めた調子で彼は聞く。 「どうして謝るのさ」 どうして。 そんなものは決まっている。こんな場所で立ち往生させてしまっているのも、新撰組に追いつけないのも、彼の心をこんなにも沈ませてしまっているのも、わたしがいけないのだ。 夜の闇は心地よく静かでひんやりと冷たい。わたしは泣き顔のまま、きちんと彼を見据えた。 「わたしが、もっと強かったら」 強く勇敢で、あなたを包み込むだけの腕があればよかった。 千鶴ちゃんのようにまっすぐな瞳であなたを見つめられればよかった。 そのどれも出来なくて、不甲斐ないばかりのわたしがここにいる意味はなんだろう。守りたくて必死になったものさえ、曖昧で不確かなものにしてしまっている。 焦っていないわけじゃない。沖田さんの笑顔の裏に、ぴたりと張り付く死の影が恐ろしい。 「君、真面目だよね」 「…………」 「まるで千鶴ちゃんみたいだ。あんなに心配性なのは土方さんにだけで充分だよ。僕には君ぐらいでちょうどいい。…………刀を持って戦ってくれる女の子なんて、他にいないしね」 からかうように腰に指した刀をなでられた。わたしは涙をぐいと拭う。自分にできることをしようと決心して刀を抜いたあのときから、わたしは女であって違うものになったのだ。 沖田さんの瞳をまっすぐに見つめると、どうしても不思議と泣けてしまうのだけれど。 「わたし、足手まといじゃないですか」 「ぜんぜん。足手まといだったらとっくに捨ててるよ」 「………無理してませんか」 「あれ? さっき君言わなかったっけ。今無理しなくて、いつ無理するのさ」 くつくつと猫みたいに瞳を細めて笑うから、わたしもつられて笑ってしまった。喉の奥が引きつるみたいな、不恰好な笑顔。けれど沖田さんはわたしの顔を見て、一層穏やかな顔をする。 「僕は君でよかったよ」 突然そんなことを言うものだから、びっくりして声も出ない。まるでわたしの悩みなど、お見通しだとでも言うような沖田さん。 断ることもできたのだ。あのとき、沖田さんの看護を頼まれたときわたしには断る選択肢だってあった。そうなれば千鶴ちゃんに役目が回ることも、だからわたしが新撰組についてゆく予想も瞬時にできていた。そんな計算をしておいて、だからこそ後悔しているわたしはバカだ。 泣き出しそうになるのを必死に耐えながら、わたしは笑った。 「違いますよ。わたしが、沖田さんを選んだんです」 選ばれたのは、沖田さんなんですよ。 言えば「生意気」とでこぴんされてしまった。地味に痛くてそのまま泣き出したわたしを沖田さんはあやすように抱きしめてくれる。血の匂いがこびりついた、かさかさの着物ごと優しく温かな感触がひろがっていく。 わたしに選ばれた沖田さんを不幸にだけはさせられない。腕に抱かれたまま明日落とすかもしれない命をこの人のために使おうと再度心に誓った。 見上げた月は綺麗な三日月を描き、沖田さんの茶色の髪ごしに透けて見えた。闇から侵食してくる不安に身を焼かれながら寄り添うわたし達は、今日も眠れぬ夜を過ごすのだろう。 これは近藤局長が新撰組の為に捕まったと、知らされる前夜の物語である。 |
祈りは散りゆく花の如く
(10.09.12)