「ここで待ってる」 わたしは自信を持って、微笑んでそう答えた。刺すような寒さが体の芯まで凍らせる、そんな夜だった。わたしは体に巻きつけたストールを胸の前で交差するようにして、外気から体を守る。部屋は暖かいというのに、目の前の女性を前にするといつも凍えてしまう。 女性は美しい金髪をしていて、古めかしいドレスに身を包んでいた。温かそうだが重そうな、豪華なカーテンのように感じるドレスをいとも簡単にさばいて彼女はわたしを見つめる。瞳は猛禽類のようにするどく、わたしは自分がいかにちっぽけかを思い知らされた。 「ナターリヤ」 名前を呼んでも返事をしてくれない。いつか、笑いながら振り返ってくれたのを思い出してわたしは懐かしむ。もちろんわたしに笑いかけてくれたのではなく、隣にいた男性に笑ったのだ。彼女が姿と同じように素直で、幼い感情をきちんと持っていたころなど見たことはない。けれど、ナターリヤは彼の前ではいつも素直で幼かった。 かち。不穏な音が、ナターリヤの指先から聞こえた。わたしは鉄の塊を向けられているのを、ようやく理解する。指先ひとつ、力を込めるだけで拳銃というものは人が殺せる。理解していても、事態は飲み込めていないわたしは相変わらず微笑んだままだ。 「答えは聞こえた? ナターリヤ。わたしは、ここで待ってる」 「…………」 「だから、あなたのお願いは聞いてあげられない」 ここで待っているから、わたしはあなたがしてほしいことをしてあげられない。 ナターリヤがわたしに頼みごとをしたのは初めてだった。いつも彼の傍にいたせいで、ナターリヤの可愛らしい嫌がらせを受けてきたから、わたし達は面と向き合って話すことすら初めてかもしれない。暖炉の赤々と燃える、冬がとてつもなく長い北の大地で、わたしは美しい少女に殺されるんだろうか。彼女は意志の強い子だから、わたしのあずかり知らぬところで結論なり原因なりを考えていたはずだ。それが随分あちらに具合がいい結果にはなっただろうけれど、覚悟を持って彼女はわたしを撃つのだろう。 ナターリヤの濃い紫色の瞳が、一瞬ゆらぐ。 「…………あなた、嫌いだわ」 「…………」 「私がこんなに頼んでも、あなたは動こうとしない。動かないってことが、どれだけ兄様を不幸にしているかわかっているの?」 兄様。アルトより低めの彼女の声はいつも足元をすくませる。ナターリヤが兄と呼ぶ、この北国そのものの人はここにはいないというのに、わたしは彼がここにいてくれるような気がした。ナターリヤの気配が、彼の気配と重なったせいだ。 イヴァン。 わたしは胸のうちで呟く。小さく高く、名前を呼んでいたあの日と変わらない口調で。 「彼が、不幸?」 復唱しながら、わたしは彼を想像する。大きな体を持っていた。誰より優しい笑い方するくせにちっとも面白そうじゃなくて、わたしは一々苛立った。心から笑えなければ笑わないでと文句を言って、その場にいた全員が息を呑んだ。イヴァンは一瞬きょとんとしたあとに、自分のしでかしたことの大きさに顔を青くさせるわたしに笑った。楽しそうに嬉しそうな声で、ケラケラと笑った彼を今でも覚えている。結局そのあと、わたしは真冬の庭を掃除させられたのだけれど。 彼が不幸だなんて、信じられない。いつだって彼は不幸だったじゃないか。 「今更、彼の体質をどうこう言っても始まらないよ。ナターリヤ。それにわたしはもうたくさん我慢してきたの。彼の望みを星の数ほど叶えても、結局彼はわからなかった」 わからなかった。わかろうとしなかった。理解してしまったら、イヴァンは自分が自分でなくなることを知っていた。 なんて賢くて、脆弱な人だろう。彼はいつも薄い仮面をかぶって生きてきた。思うこともすることも仮面越しであれば深く傷つかずに済む。心を晒さなければ付け入られることもない。 けれど、それでは誰も傍にいられない。人は自分が望まれているかどうかについてひどく敏感だから。 ナターリヤは唇をきつく噛んで、気丈に腕を張り続けている。わたしがイヴァンの元を去るときも、彼女は同じ表情をしていた。さようなら、と笑ったら、平手が飛んできたので寸でのところで避けてかわした。かわしたあとで受けてあげればよかったと後悔したのを覚えている。 「兄様は、あなたが来るのを待ってるのよ」 綺麗にルージュのひかれた艶やかな唇から漏れ出す音は呪いのようだ。これならいっそ、憎いとはっきり言ってもらったほうがいい。 わたしは視線を窓の外に移す。ひどい吹雪が窓をかたかたと揺らしていた。 「奇遇ね。わたしも、彼を待っているの」 一言も漏らさず聞いてほしかったので、わたしはゆっくりと発音する。 「あそこを出るとき、わたしは言った。わたしが必要になったら迎えに来て。そして必要だって、ちゃんと言ってって」 呪文はすでに渡してあった。彼はわたしの目の前でそれを唱えるだけでいい。たった一言であるというのに彼はいつまで待っても現れない。探してもらえない宝箱は扉の中で眠るしかないのだ。 「だからね、ナターリヤ。わたしはここで待ってる」 いつか、彼が心からわたしを望んでくれたのなら帰るだろう。わたしの前に立ち、瞳を見据え、優しい声音で囁いてくれるのを待っている。その日が永遠に来なくても、そうでなくては帰ることは出来ない。 ナターリヤは小刻みに震えながら銃を下ろした。怒りかやりきれなさか、それとも両方かはわからなかったがそれらすべてが彼女の中にある。まざりあった感情は渦を巻いて体を侵食していく。ナターリャに好かれることは、これから先も一生ありえないだろう。彼女のように純粋に彼を愛し慈しむことはすでに出来なくなってしまったのだから。 「…………ごめんね。ナターリヤ」 決意も覚悟も無駄にしてしまって。 わたしは微笑んだまま、「お茶を淹れるわ」と言って部屋を出た。数分後温かい珈琲を運んできたわたしは、誰もいない部屋で一応彼女を探す。きっといないだろうと思っていたので、用意したカップはひとつきりだ。 外はひどい吹雪だが、ナターリヤはそれでも帰っていくのだろう。吹雪そのものに荒れ狂う彼の元へ臆すことなく突き進む彼女の強さがわたしにもあればよかった。与えただけの愛情を欲しがる欲張りな女だったわたしは心底彼が好きだったのだ。困難だったとしても、彼が手を出してくれるのをひたすらに待っているくらい、愛していた。 |
祈りは散りゆく花の如く
(10.05.08)